「高12回 3G」の版間の差分

提供: 八中・小山台デジタルアーカイブ
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 この文章は坂倉海彦の素案をベースに根津修、藤田邦武、荒木鑑、興津雄二、勝田泰久、松丸重雄、高原晃の各幹事が意見を出しあい写真の加工などの作業を分担して完成しました。
 この文章は坂倉海彦の素案をベースに根津修、藤田邦武、荒木鑑、興津雄二、勝田泰久、松丸重雄、高原晃の各幹事が意見を出しあい写真の加工などの作業を分担して完成しました。


 (原稿作成日:2022年11月3日)
            (原稿作成日:2022年11月3日)


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2022年11月19日 (土) 21:04時点における版

2G集合写真





卒業から62年、毎年楽しく集まるクラス会:板倉 海彦

2022年G組クラス会

 2022年10月16日(日)、毎年恒例のG組クラス会が開かれ15人のクラスメートが出席、3時間の宴を楽しんだ。今年度中に全員が81歳になるがまだまだ出席者は元気、毎年来ているのに会場の場所が分からなくなって遅刻したメンバーもいたが、多分全員無事に帰宅してくれたのだろうと思う。

 小山台高校卒業後の大学生時代、その後の社会人時代はそれぞれ進む道も違ったし、多忙な仕事人間として過ごした世代だからそんなに頻繁にクラス会を開催したわけでは無かったが、少しずつゆとりの出来てきた1990年代位から、つまり50歳を超える頃から毎年のようにクラス会を開くようになった。

 クラスメートの一人が結構熱心に記録を残していてくれたが、それでも空白があり、これまで何回やったのかなどは到底分からない。

 そして2000年代になってからは会場と日程を固定したことで毎年確実に開くこととなった。また担当の永見至先生がご長寿で80歳代になっても毎年出席して下さった事もクラス会を毎年開こうというクラスメートの気持ちに繋がったように思う。

 



 このようにしてクラス会を続けていると面白いもので、最初は高校時代の思い出を語る会という感じが強かったが、メンバー同士が年を取ってからの新たな交流が重なって来ると新しい人間関係が生まれ年々より楽しく、より盛り上がる会になってきたように感じる。

 そして最近は「皆で80歳まで生きて来たのだ」という連帯感や誇りのようなものが生まれて来たように思う。もちろんこの年齢だから物故者もいるし、連絡がどうしても取れないクラスメートもいるが、クラス50人の内、物故者と連絡の取れない者が概ね4割、連絡はとれる者6割、そしてクラス会に賛同し参加可能な境遇にある者が4割である。

 近年の会では多くて18人~20人の出席であるが、さすがに新型コロナ感染症が蔓延した2020年は12人、21年は14人、22年は15人であった。他を聞いてみるとコロナ感染の時期に不要不急のクラス会をやるなんてとんでもない!と言う意見が強かったようだが、我々のクラス会は日程を調整するなどはしたものの、しっかり会場も抑えて一度も休まなかった。我々にとってのクラス会は不要不急どころか、この時期に必要な集まりだと多くのクラスメートが意識していたからだろう。




在学当時の小山台高校

 我々のクラス、小山台高校12回生は1957(昭和32)年に入学、1960年までの3年間の武蔵小山での学園生活を送った。この時期の小山台高校の位置づけを思い出してみると、近年の大学の付属校、中高一貫教育校、多くの私立受験校などが受験の主役になっている時代と異なり、公立高校(東京では都立高校)が圧倒的に受験の中心だった。

 そんな中で小山台高校は一応有名受験校の一角ではあったが同じ学区の日比谷高校が抜きん出た進学校であったのに対し、東京工大への進学者が全国1位であったが、他の国公立大や私立大への進学者も多く、生徒が進みたい道が多様だったのではないだろうか。また受験の事が中心で勉強ばかりしていた生徒は少数で、多くがスポーツの部活に熱中するなど結構高校生活を楽しんでいたようにも思う。

 


 我々クラスメートは2年と3年の2学年をG組で過ごしたが、部活に時間を割くクラスメートも多く、理科系、文科系で授業が分かれていたからクラスで集まるのは昼休みのホームルームの時だけだったのではないかと思う。ホームルームは和気あいあいとした感じだったことは覚えているが、多分他のクラスも同じようなものだったのではないだろうか?

 ただ2年生の3学期に開催された校内クラス対抗駅伝大会には2チームで参加し、1チームは大会新記録で優勝した。また3年の秋の運動会はG組のクラスメートが応援団長で、G組男子が中心になって下級生を導き見事にG組とH組の黄色組が優勝した。

 受験勉強中でも学校の行事などでは皆が協力する団結の強いクラスだったのかもしれないし、このことは楽しかった良い思い出として皆の心に残っている。



クラス会幹事グループ創設

 クラス会を開くとなると幹事を決めて様々なアレンジをするのが普通だろうが、当然我々のクラス会もそのような体制で開催してきた。

 しかし75歳を超えたころから、幹事が急に病に倒れたりするとこのクラス会が途切れるリスクがあるという話になり、幹事を複数にしてリスクヘッジをしようという事になった。

 その結果8人で幹事グループを編成し夫々が会計担当、会の進行担当、名簿や書類担当、連絡担当、会場との折衝担当、会の挨拶担当など適当に分業している。また関西居住のクラスメートには母校が再び甲子園に出場の際の大阪での臨時クラス会を開く時の担当をお願いしてある。

 実は2014年のセンバツ高校野球に小山台高校が初出場した時には、我々のクラスメートが10人も大阪に駆け付けた。そして甲子園で応援の後大阪のホテルで臨時クラス会を開いた。多分50年以上前に卒業した年代で1クラスから10人も甲子園に応援に行ったのはそう多くはないはずだ。


   



幹事会の楽しみ
 クラス会幹事を複数にすることになると時々幹事会を開きクラス会の反省をしたり、計画を立てたりする事になる。10月のクラス会の後12月か1月に幹事会を開き、反省点を話し合い次の会に生かそうという事になるが、当然その後は忘年会または新年会での一杯を楽しむ。

 5月頃に春の幹事会で情報交換のあと一杯、暑気払いの際に次のクラス会の詳細を決めてまた一杯。クラス会を含めて年4回集まることが幹事にとってはこの上ない楽しみになって来た。

 最近になって「G組クラス会は我々の生涯の財産だ!」という気持ちが幹事にも芽生えてきているし、クラスメートも近い思いだろう。これから我々は年々加齢し色々問題が出てくるであろうが、先ずはクラス会の出席を目標にお互いに元気でいるように刺激し合い、動けないクラスメートが出てきたらITに強い幹事がオンラインでも出席できるようにしよう!などと話し合っている。出来るだけ長く続ける覚悟なのだ。




母校100周年を祝える喜び

 我々の人生にこのような素晴らしい贈り物をしてくれた小山台高校に感謝をしたいし、その母校の100周年に立ち会えることは高12回生G組クラス会のクラスメート全員の喜びである。

 ありがとう!

 そして100周年おめでとう小山台高校!♪


   



100周年の先を見つめて
 後輩にぜひ伝えたいこと

 私たちの世代は長寿化の恩恵を受け始めた世代で80代になった今でも高校時代の仲間との楽しいクラス会を続けています。今の高校生諸君は我々よりもっと長い年月を生きることになります。

 長い人生を素晴らしく生きるには月並みな言葉ですが身体、心、頭脳をバランスよく鍛える事が大切、特に高校時代がポイントだと思います。また生涯付き合える良い友や仲間を純粋な気持ちで作れるのもこの時期かもしれません。幸いに小山台高校にはそれらを叶える環境が今でも揃っているのではないでしょうか。

 小山台での高校生活を充実させ、卒業後もその縁を大切にして良い人生を送る後輩が多い事を願っています。




あとがき:
 この文章は坂倉海彦の素案をベースに根津修、藤田邦武、荒木鑑、興津雄二、勝田泰久、松丸重雄、高原晃の各幹事が意見を出しあい写真の加工などの作業を分担して完成しました。

            (原稿作成日:2022年11月3日)





卒業アルバムより

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脚注: 


2022年11月19日:直近編集者:Hk100admin
TimeStamp:20221119210458