「岡田 藤十郎」の版間の差分

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: 普通選挙も早晩実施されねばならぬことは明らかであるがその結果がいかになるかは一般民衆の知見の発展の程度と理解力の進歩の程度如何によって定まるのであって、教育なく修養なき多数愚民の政治は国家を破滅に導く恐るべき悪政に堕することは申すまでもありません。
: 普通選挙も早晩実施されねばならぬことは明らかであるがその結果がいかになるかは一般民衆の知見の発展の程度と理解力の進歩の程度如何によって定まるのであって、教育なく修養なき多数愚民の政治は国家を破滅に導く恐るべき悪政に堕することは申すまでもありません。
: 今後の普通教育特に社会の中堅人物を養成する高等普通教育に於いてはこの点に着眼して一切の施設を進めねばなりません、生徒たちに因襲に囚われ秀才教育にのみ腐心して一般民衆の啓発を顧みぬごときは時代錯誤であります。
: 今後の普通教育特に社会の中堅人物を養成する高等普通教育に於いてはこの点に着眼して一切の施設を進めねばなりません、生徒たちに因襲に囚われ秀才教育にのみ腐心して一般民衆の啓発を顧みぬごときは時代錯誤であります。
: されども理解ある一般民衆の中心に立ちてこれを指揮し誘導する者は天分を有する秀才の任務であるから秀才教育も軽視してならぬことは無論
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2022年12月25日 (日) 12:35時点における版

(編集中)

岡田藤十郎 初代校長

岡田 藤十郎(おかだ とうじゅうろう、18XX年4月 - 1XXX年)は、日本の教育者。東京府立第八中学校校長(初代)

本校歴

1923(大正12)年1月20日 東京府立第八中学校初代校長として赴任
  4月8日 入学式を青山師範学校講堂にて挙行。1年281名(志願者1,047名)、6学級で発足
  9月1日 関東大震災の被災生徒および一般被災者の救援活動実施
  11月29日 校友会規則を制定
  12月2日 保証人会(父兄会)組織が成立
1924(大正13)年4月1日 新築校舎一部完成。正門および西館3階建。2・3階普通教室8、1階理科特別教室(物理実験教室、器財室、物理準備室、物理講義用階段教室)、用務員室
  7月 体育の水泳授業実施(神奈川県中原村丸子先多摩川水面800坪を借用
1925(大正14)年4月 校歌を制定
  5月5日 開校記念日を5月5日に設定
1926(大正15)年2月24日 教練の第一回査閲を実施
  3月18日 入学試験合格者発表、乙種合格者に対して抽選実施
  3月20日 校舎全館落成。校舎中央屋上に八角塔
1927(昭和2)年7月1日 プール完成、35m×12m(大プール25m×13m、6コース、小プール10m×13m)
1928(昭和3)年3月8日 第一回卒業式挙行(中1回:200名)
  4月 各学年6学級として完成
1929(昭和4)年4月 補習科を設置(1930年3月まで)
1934(昭和9)年10月15日 多摩川河原を借用、運動場として使用
1935(昭和10)年3月31日 東京府立八中夜間中学を設置開校する(第一学年1学級)
1936(昭和11)年7月 校友会の寄付により図書館兼工作室完成(木造2階建423㎡)


岡田藤十郎伝

岡田藤十郎伝」は、藤十郎のご子息である高氏が父の伝記を執筆しようと言う構想を持っていた。中学一回生藻寄氏が「校長先生ありがとう」と「八中一回生のうた」をつくり中学一回生の中野氏がこれを高氏に贈ったことをきっかけに中学一回生との交流が始まり、高氏の岡田藤十郎傳の編纂に力を貸してほしいという要望に中学一回生が同意して、お手伝いを始めてから3年の月日を要して、1984年(昭和59年)5月10日に上梓されたものである。

入学志望者の父兄諸君に望む  1923(大正12)年1月 東京府立第八中学校長 岡田藤十郎 創立当初の声明

府立第八中学校は対象12年4月から新たに設立されるので私がその校長を拝命しました。
新たなる仕事には新たな方針を定めて取り掛からねばなりません。
私は次に述べる方針で次代の府民の育成のために誠意誠心微力をつくしたいと思います。
最愛の子弟を当校に入れようとなさる父兄諸君は予めその方針を御諒解くださることを望みます。
【1】中学教育は必ずしも高級学校への入学準備をのみ目的とする教育でないことは申すまでもありません、特に府民の租税によりて経営する府立中学校では府民一般の子弟に対しなるべく入学の機会を均等にすることえを本旨とせねばならぬはずであります。
 学校教育の必要を痛切に感じるものは特殊な秀才でなくて普通一般のものであります、特に今の時勢は少数有識階級の者が多数無識階級の者を愚民として支配した昔の時代とはよほど趣を異にし一般民衆の理解力を進め知見を向上発展することが極めて必要になってきたのであります。
 普通選挙も早晩実施されねばならぬことは明らかであるがその結果がいかになるかは一般民衆の知見の発展の程度と理解力の進歩の程度如何によって定まるのであって、教育なく修養なき多数愚民の政治は国家を破滅に導く恐るべき悪政に堕することは申すまでもありません。
 今後の普通教育特に社会の中堅人物を養成する高等普通教育に於いてはこの点に着眼して一切の施設を進めねばなりません、生徒たちに因襲に囚われ秀才教育にのみ腐心して一般民衆の啓発を顧みぬごときは時代錯誤であります。
 されども理解ある一般民衆の中心に立ちてこれを指揮し誘導する者は天分を有する秀才の任務であるから秀才教育も軽視してならぬことは無論

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 (中略)
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作詞


関連項目

着任:1923年1月20日
退任:1937年11月11日
在任 後任

1923年度 (大正12年度)

1924年度 (大正13年度)

1925年度 (大正14年度)

1926年度 (大正15年度)

1927年度 (昭和 2年度)

1928年度 (昭和 3年度)

1929年度 (昭和 4年度)

1930年度 (昭和 5年度)

1931年度 (昭和 6年度)

1932年度 (昭和 7年度)

1933年度 (昭和 8年度)

1934年度 (昭和 9年度)

1935年度 (昭和10年度)

1936年度 (昭和11年度)

1937年度 (昭和12年度)

中島 嘉之吉

関連事項

外部リンク






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脚注: 

2022年12月25日:直近編集者:Inorio
TimeStamp:20221225123555