合唱コンクール
合唱コンクールの始まり
- 合唱コンクールの概要(音楽科 土屋公平:六十周年記念誌より)
- 第一回の校内クラス対抗合唱コンクールは昭和四五年(1970年)に始まる。
- 六月七日より三日間授業終了後三時過ぎから各学年ごとの予選を行い上位三クラスずつを選び、六月十日に予選通過の全九クラスにより本選を行った。
- この合唱コンクールは、校歌を覚えること、新年度の学級づくり、全員が合唱の楽しさを味わうなどをを主な目的として、音楽科と生徒部(石黒冨美男部長)の企画立案によって推進され、実現したものである。
- 演奏曲目は、校歌を課題曲とし、これに各クラス任意選定の自由曲で、審査は職員有志と生徒(各クラス一名の審査員)の三十数名で行い、点数制によって入賞クラスを決めた。
- 昭和四七年(1972年)には職員合唱が初参加し、「八中校歌」と「めだかの学校」の二曲を奥野一雄先生(数学科)の指揮によって歌い、大好評であった。しかし、職員合唱は間もなく中止せざるを得なくなった。練習時間がとれないことと、審査と演奏の掛け持ちが困難になったことなどが中止の理由である。
- 合唱コンクールも学校行事の一つとして徐々に定着し、昭和五一年、第七回から一日を使って、池上の大田区民会館で行われるようになった。午前九時三十分に開会し、午前中に一・二年の演奏、午後三年の演奏を行い、三時三十分閉会の時程で行われ、この時程が継続されるようになった。
- 本番に至るまでの練習時間は、発足当初では無制限であったが、やがて二週間となり、大田区民会館で行われるようになってから八日間に短縮された。また、審査も点数制から職員と音楽科教生のみによって協議して行うように変わり、現在に至っている。
- 練習時間は短縮されたが、生徒の合唱コンクールに対する意欲は徐々に向上し、積極的に難曲に取り組むようになってきた。ここ数年の選曲をみると、一年は「大地讃頌」「木琴」などのオリジナルから、「モルダウの流れ」や、フォーク調の編曲ものなどがみられる。二・三年はほとんどオリジナルで、合唱組曲からの選曲が多い。中でも「島よ」(大中恩)・「海鳥の歌」(広瀬量平)・「心の四季」(高田三郎)・「旅」(佐藤真)・「筑後川」(団伊玖磨)などがよく選ばれている。また、「ともしびを高くかかげて」・「ひとつの朝」・「わが里程僄」・「赤い機関車」などのNHK合唱コンクールの課題曲や「ハレルヤ」「流浪の民」のような古典に属する曲、異色な「カルミナ・ブラーナ」のような曲などが選ばれるようになってきたことも、最近の傾向の特徴てきなことである。
合唱コンクール この10年
- 七十周年記念誌より 音楽科 三澤寿喜
今年(1992年)合唱コンクールの変遷で第23回を迎えた小山台高校の合唱コンクールは運動会と並ぶ一大学校行事である。
伝統ある合唱コンクールは校歌を覚えること、新年度の学級づくり、合唱の楽しさをあじわうことを大きな目的として、1970年(昭和45年)に始まった。この年は6月7日より3日間、放課後、本校旧校舎の講堂にて各学年ごとの予選が行われ、上位3クラスずつが6月10日の本選に出場した。本選は学年の区別なく審査されたので、入賞は3年生が独占し、2年生や1年生は努力賞を獲得するのが精一杯だったらしい。
1973年、第4回からは職員合唱が加わったが、練習時間が十分にとれないなどの理由で、間もなく中止された。
1976年、第7回からは会場が大田区民会館に移された。全校生徒が一堂に会し、全日かけての合唱コンクールの形がここで整えられた。この年、本選、予選の形は廃止されたが、学年の区別なく順位をつける形式は継続された。やはり、入賞は3年生が独占していた様子である。
1978年、第9回からは学年ごとに順位をつけ、表彰する形に変えられ、これが現在まで踏襲されている。
合唱コンクールの現況
今年(1992年・第23回)の合唱コンクールを中心に、その現況をまとめてみた。
合唱コンクールは各クラスから選出された文化委員によって運営される。各クラスでは文化委員を中心にして、5月16日(土)までに指揮者、伴奏者、自由曲が決定された。選曲にはどのクラスも苦労しており、音楽準備室には連日、文化委員が過去の録音テープなどを借りに大勢押しかけてくる。
練習は5月27日(水)から6月4日(木)までの8日間。かつては練習期間は無制限であったらしいが、やがて、2週間と定められ、更に会場が大田区民会館に移った1976年(第7回)から、現行の8日間となった。本校の学校行事の準備は短期間に集中して行われるが、合唱コンクールもその例にもれない。最初は練習にのり気でなかった生徒も、校内のあちらこちらから歌声が聞こえてくると、クラス相互のライバル意識も手伝って、どのクラスも練習に熱がこもってくる。
6月5日(金)、大田区民会館にて今年の合唱コンクールは本番を迎えた。9時半の集合以前に、本門寺の境内で練習をするのは例年どおりである。午前に1年生と2年生、それに職員合唱の発表。職員合唱は前述のとおり、一度中断されていたが、横山先生(社会科)の熱意と努力により、昨年から復活したものである。午後は3年生の発表と表彰式。1位は1年がC組、2年がA組、3年がC組、D組であった。
今年も盛り上がりのある熱のこもった合唱コンクールとなった。17回続いた大田区民会館での合唱コンクールはこれが最後となり、来年は虎ノ門ホールに会場が移される。これを機に、伝統ある本校の合唱コンクールがいよいよ盛んになることを願いたい。
合唱コンクール この10年 80周年記念誌から 音楽科 鈴木孝助
平成15年度(2003年)で第34回を迎えた小山台の合唱コンクールは運動会と並ぶ一大学校行事である。
伝統ある合唱コンクールは校歌を覚えること、新年度の学級づくりそして合唱の楽しさを味わうことを大きな目的として昭和45年(1970年)に始まった。この年は6月7日より3日間の放課後に本校旧校舎の講堂において各学年ごとの予選が行われ、上位3クラスずつが6月10日の本選に出場した。本選は学年の区別なく審査されたので、入賞は3年生が独占し2年生や1年生は努力賞を獲得するのが精一杯だったらしい。昭和48年(1973年)(第4回)からは職員合唱が加わったが練習期間が充分にとれないなどの理由で、間もなく中止された。。
昭和51年(1976年)(第7回)からは会場が大田区民会館に移された。全校生徒が一堂に会し、全日かけての合唱コンクールの形がここで整えられた。この年、予選・本選の形は廃止されたが、学年の区別なく順位をつける形式は継続された。やはり入賞は3年生が独占していた様子である。昭和53年(1978年)(第9回)からは学年ごとに順位をつけ表彰する形に変えられ、これが現在まで踏襲されている。平成5年(1993年)(第24回)からは虎ノ門ホールが会場となり、生成13年(2001年)(第32回)からあの名門ホールである日比谷公会堂が会場となっている。
合唱コンクールの現況
平成14年度(2002年・第33回)の合唱コンクールを中心に、その現況をまとめてみた。
合唱コンクールは各クラスから選出された文化委員によって運営される。各クラスでは文化委員を中心にして5月中旬までに指揮者・伴奏者・自由曲が決定される。選曲にはどのクラスも苦労しているが、出来るだけ本校では歌われたことのない新しい曲に挑戦しようとする気概があふれており音楽準備室や近隣の図書館のCDやテープをフルに活用して内容的にも高いレベルの極を選ぶようになっている。ゴスペルのアカペラコーラスもここ2,3年前から歌われるようになり会場を沸かせているのも時代の流れなのだろう。練習は5月31日(金)から6月11日(火)までの8日間。かつては練習時間は無期限であったらしいが、やがて2週間と定められ、更に会場が大田区民会館に移った昭和51年(1976年)(第7回)からは現行の8日間となった。本校の学校行事の準備は短期間に集中して行われるが合唱コンクールもその例にもれない。昨年度より学校週5日制となり授業時間確保ということを考えてもこれは行事の範となるだろう。練習初日の朝から校舎内には歌声があふれ、現代の高校生が一つのことにこれだけ熱くなれるのかという程の8日間が過ぎていく。教員コーラスも5年前から復活し、忙しい中、音楽室に集まり教育実習生の若い力を借りながら練習を続け本番を迎える。
6月11日(水)日比谷公会堂にて今年の合唱コンクールは本番を迎えた。9時の集合時間のはるか前(早いクラスでは朝6時位)から各クラスとも日比谷公園で本番さながらに声を出して練習する光景は圧巻である。午前に1年生と2年生の発表、午後に3年生の発表と教員コーラスそして審査発表。審査は、以前は本校の教員だけで行っていたが生徒の強い希望により5年前からプロの音楽家により編成されるようになり技術的・音楽的に、より専門的に審査が行われ、審査講評用紙も各クラスに公開され、これが次年度の合唱コンクールの大きな指針になっている。
今年も技術レベルの高い、音楽的に内容のある合唱コンクールになった。伝統ある本校の合唱コンクールがいよいよ盛んになることを願いたい。
合唱コンクールの変遷 90周年記念誌から 音楽科 佐良土道子
はじめに
- 平成25年度(2013年)で第44回を迎ええた合唱コンクールは運動会、文化祭と並ぶ小山台高校の3大行事の一つです。
- 私が小山台高校に着任して早くも11年の月日が経ちました。合唱コンクールは練習の方法や使用する機材は少しずつ変わってきましたが「課題曲は全学年校歌」「練習期間は10日間のみ」という特色は全く変わっていません。1~3年生まで参加して6月に行われる合唱コンクールは入学したばかりの1年生も短い期間で立派に歌い、特に3年生はどうしてこんなに短期間でこれだけの合唱ができるのか?と驚嘆してしまうような合唱を披露してくれます。小山台生の底力を垣間見ることのできる10日間でもあります。
- 合唱コンクールは生徒部が主体となって全体の運営を行い、音楽科と一体となって学校全体の協力を得ながら準備を進めていきます。
- では実際に、どのように運営されているのかを説明したいと思います。
- ◎合唱コンクールの目的、及び会場の変遷
- 1,新年度の学級づくり。
- 2,校歌を愛唱する。
- 3,合唱を通して協調の精神を養う。
- 4,協力して良い音楽を作り上げる喜びを味わう。
- 上記の目的により昭和45年に始まった合唱コンクールは初めの頃は予選、本選に分けて行われていました。本選に出場できるのは各学年3クラスのみで学年の枠を取り払っての審査のため常に3年生が1,2,3位を独占するという状態だったようです。昭和51年からは会場も学校の講堂から大田区民会館に移ったのを機に全学年が一堂に会し、まる一日かけての開催となりました。更に昭和53年からは審査を学年単位に順位をつけ表彰する形に変わり現在まで踏襲されています。
- 平成5年(1993年)からは虎ノ門ホールそして平成13年(2001年)からはあの名門ホールである日比谷公会堂が会場となり現在に至っています。どこのホールも昨今は1年前、または1年半前に抽選により会場が取れたり取れなかったりする事は重大な問題なのです。その中で日比谷公会堂は一年前に確実に予約させてもらえる数少ない有難いホールなのです。
- ◎練習について
- 1,練習の時間
- 10年前は朝、昼は全員で一斉に練習できましたが放課後はほとんどが班活動に行ってしまうので残るのはブラスバンドの生徒と班活動を引退又はその日に活動のない班の生徒しかいません。
- 班活動もやりたいし合唱の練習もやりたいと生徒はその狭間で常に葛藤していました。
- 合唱の場合は時間は短くてもクラス全員で取り組み音楽を共有することが大切です。そこで平成19年からは合唱コンクールの練習のシステムを大幅に改定しました。
- まず朝35分昼休み25分放課後は授業を5分短縮して30分えお捻出し、それに10分間だけ班活動の時間を削り合計40分間を全校一斉に練習する時間としました。
- 合唱コンクールの練習期間中も班活動はできる上、合唱の練習もできるので生徒にとっても絶妙のバランスで行事と班活動を両立することが出来るようになりました。
- そして一日総計90分を合唱コンクールの練習に充てることが出来るようになり短い練習期間にも関わらず質の高い合唱を作り上げるこっとができるようになりました。
- 2,練習の場所と機材
- 以前は自分のHR教室に加えて1年生は生徒ホール、2年生は音楽練習室、3年生は音楽室の3か所のみがピアノの使える部屋として割り当てられていました。
- 1年生は良いとして2年生、3年生が広々した場所で練習できない状態でした。
- そこで全校一斉に練習できるようになった年から2年生は視聴覚室、3年生は柔剣道場と体育館を割り当てることが出来るようになりました。これらの場所には体育館以外は普段ピアノは置いていませんが、この期間だけ生徒ホールや音楽室からピアノや電子ピアノを運ぶので、ピアノ伴奏に合わせた合唱練習が10日間丸丸できるようになりました。ピアノも10年前には生徒ホールに1台、体育館にはピアノがない。という状況でしたが企画室のご協力により中古ではありますが芸術高校や芸術劇場、生成24年度には東京都児童会館の閉館に伴う備品の移動によりなんとグランドピアノ2台を譲り受けることができました。おかげで現在は生徒ホールに3台、体育館に1台の立派なグランドピアノが置いてあり普段は班活動で使ったり、ピアノを愛する生徒や教員が常に演奏し音楽が日常の中に溶け込んでいる環境を作ることが出来ました。
- その他にも練習機材としては生徒部、生徒会、体育科、音楽科で協力しながらラジカセ、キーボード、録音機、などを予算化して各クラスに行き渡るよう整備してきました。電子オルガン(通称エレクトーン)は数年前に東京都教職員研修センターからこれもまた中古ではありますが11台譲り受け3年生に割り当てて有効活用されています。
- (1)合唱コンクールで割り当てられる機材
- 1年生、2年生
- キーボード 各クラス2台
- ラジカセ 各クラス1台
- 録音機 学年3台
- 3年生
- キーボード 各クラス1台
- 電子オルガン各クラス2台
- 電子ピアノ 各クラス1台
- 録音機 学年3台
- (2)合唱コンクールで割り当てられる場所
- 1年生
- 生徒ホール
- 2年生
- 音楽練習室、視聴覚室
- 3年生
- 音楽室・体育館・柔剣道場
- 3,伴奏者指導と指揮者指導
- 練習期間は10日間ですがピアニストの伴奏練習は曲が決まり次第始まります。
- 以前は伴奏の練習が間に合わず本番で止まってしまったり上手く弾けなくなってしまう場面もありました。
- そこで数年前から中間テスト明けの頃に校歌と自由曲の伴奏者全員を順番に呼んで点検をする事にしました。
- その際伴奏の楽譜が伴奏者の技量にそぐわない場合は違う編曲のものを紹介したり、練習の方法を指導するなど音楽科としてできる限りの指導助言を与えて合唱コンクールの練習が始まる頃までには伴奏が9割方完成しているような流れを作りました。その結果本番でトラブルを起こす頻度は極端に少なくなりました。
- 2番の項目で紹介したように各学年共ピアノが随時使える状態なので早い段階で合唱とピアノ伴奏を合わせる練習ができその結果曲のイメージ作りもスムーズに出来るようになりました。同時に指揮者指導も行います。指揮者には二つのタイプがあります。一つは音楽的な指導は他の人に任せてとりあえず指揮棒を振るタイプ、もう一つは音楽的な指示や指導もすべて行い指揮をするタイプです。音楽的なことはよくわからないが指揮をしたいという生徒は結構いますが合唱コンクールで歌う曲は変拍子や混合拍子の曲も多いので指揮を振るのも苦労します。
- 指揮者の場合は事前にというよりは10日間の練習が始まってから困ったと言って音楽室に駆け込んで来る生徒も多く音楽室は大忙しです。しかしそこは小山台の生徒ですから少し練習の仕方や指揮のポイントを教えてあげると見る間に上達していきます。音楽的な指導を出来る生徒も指示した事が上手く理解してもらえなかったり、要求が厳しすぎてクラスの生徒に拒絶されてしまう場合もありどちらにしても大変です。音楽室にアドバイスを求めてきた時は過去の例を話してあげたり、気持ちが和らぐようクラスの様子を聞いてあげたりして元気が出るよう助言します。本番では何事もなかったかのように堂々と指揮をしている姿を見ることが出来ます。
- 4,練習方法
- 1年生は10日間の練習に入る前に音楽選択者のみの授業の中で校歌2回、自由曲2~3回位練習をします。2年生も以前は芸術科目が必修選択だったので授業の中で1年生と同じように練習ができたのです。しかし平成19年から数学B、古典、物理、芸術の4科目の中から2科目選択するというカリキュラムに変わってからは進学実績が上がるに連れ芸術を取れない状況になってきました。
- 現在では2年生は音楽選択がほとんどいないためにまさに10日間で自分たちの力だけで合唱を作り上げなくてはならないのです。しかし1学年の時に学んだ合唱の歌い方、作り方を思い出しながら弦楽班やブラスバンド班など音楽関係の班活動の生徒たちを中心として入学したばかりの頃の1年生の時の合唱よりも数段質の高い合唱を聞かせてくれます。3年生は音楽の授業はありませんが班活動を既に引退している生徒も多く朝、昼の練習に加えて放課後の練習は下校時刻まで続きます。放課後40分間は全校一斉に練習する制度を取り入れた年は3年生がどういう動きをするのか謎だったのですが、ふたを開けてみると班活動をするであろうと思われていたブラスバンドの生徒でさえ班活動そっちのけで延々と合唱の練習をしているのです。1,2年生のHR教室は一度班活動が始まると合唱の練習には使えませんが3年生の教室は活動場所にはなっていないので放課後も合唱の練習ができるのです。電子ピアノ、電子オルガンも据え置きなので自由に使える状態です。
- 3年生の練習の特徴は実際に学校で合唱を練習するのは10日間ですが、曲が決まるや否や壮絶な合唱コンクール委員の見えない部分での準備が始まるのです。まず伴奏者の学校での練習、これは3年生に限って学校のピアノを使って空き時間や休み時間に優先的に練習ができます。また教室で授業が行われている時間帯でも本人が空き時間に場合は4階音楽室前に設置されている電子ピアノをヘッドホンを装着して練習することも出来ます。伴奏が出来上がれば指揮者との練習も出来るので練習解禁前に休み時間の合間を縫って音楽室や準備室で合わせの練習をしています。そしてパート音源作り。これは曲によっては市販されているパートテープもありますが、自分たちで作って行く中で自然にその曲の造詣も深まり実際に練習が始まったときに各パートでの音取りもスムーズに行うことが出来るという利点もあります。そして作ったパート音源をクラスの人数分ダビングし配付します。それを受け取った生徒たちは勉強の合間にそれを聞き、練習解禁の頃にはある程度の音取りができている状態になっています。このパート音源作りが上手くいかないと練習の進み方が遅れてしまうので3年生にとっては明暗を分ける重要事項なのです。
- ◎審査について
- 1,審査員について
- 以前は本校の教員だけで行っていたが生徒の強い希望により平成10年頃からプロの音楽家により編成されるようになりました。技術的・音楽的により専門的に審査が行われ審査講評用紙も各クラスに公開され次年度の合唱コンクールの大きな指針となっています。この10年間に審査をお願いした方々を以下に紹介します。
- 橋本 久喜先生(プロの指揮者)
- 鈴木 つた江先生(元都立高校音楽科教諭)
- 園原 紀夫先生(元都立高校音楽科教諭)
- 松下 倫士先生(作曲家本校OB)
- 河合 孝夫先生(プロの声楽家) 以上の審査員の先生に本校音楽科の私と音楽大学の学生である教育実習生を加え毎年5人位で審査を行ってきました。
- 2,審査の集計
- 審査は校歌(課題曲)50点、自由曲50点 合計100点×4人または5人の審査員の合計で上位3クラスを表彰します。以前は教育実習生2人で集計作業を行っていましたが、平成23年度からは教員も1名審査室に入りそれまで手計算で集計していたものをパソコンを使って計算するようになりました。おかげでスピーディーに集計作業をすすめることが出来るようになりました。
- ◎教員合唱とOB演奏
- 各学年が7クラスで21クラスだった頃は審査員が集計をしている20分間を利用して教員合唱とOBによる演奏が行われていました。3年前から8クラスの学年が出来たために合唱の発表の時間が15分位延びてしまいました。日比谷公会堂の退館時間には限りがあるためどちらか一方しかできず、ここ3年間は教員合唱とOB演奏を交代で行って来ました。どちらも好評でどちらも毎年やってほしいと要望があります。これからの10年はどのようになっていくのでしょうか?
- ◎CDからDVDへ
- 以前は3年生のみ卒業記念として合唱コンクールのCDを作成し配付していました。3年前から1年生から3年生まで学年ごとにDVDを作成し配付するようになりました。保護者の方々もおかげで当日ビデオを撮影しなくてもよくなったのでゆっくり鑑賞ができるようになりましたと好評でした。生徒たちにとって思い出が形に残り、とても喜んでくれました。
- ◎クラスのコメントの変遷
- 2005年度までは指揮者っと伴奏者の名前及び曲名を放送局の生徒が影マイクで読み上げていました。2006年からこれに加えクラスごとのコメントを入れて読み上げるようになりました。2008年からは指揮者と伴奏者の名前及び曲名は影マイクで放送局が読み上げクラスのコメントはクラスの代表が1~3人位舞台下手のマイクの前で直接話すようになりました。短い語句で如何にクラスの取り組みを表現できるかが見所ですが、それぞれ工夫して見て聞いて楽しいコメントになりました。合唱コンクール担当の歴代の生徒部の先生方の指導も加わり、ここ数年は定着してきました。
- 終わりに
- 合唱コンクールの終わった次の日、それは、私にとっては1年間の中で一番辛い日なのです。なぜかと言うと学校中の生徒が「どうしてうちのクラスが一位ではないのですか?どこが悪かったんですか?」と一様に文句を言いに来るのです。優勝したクラス以外はとりあえず納得できないと言ってきます。私一人で審査をしているわけではないのですが、他の審査員は外部の方々ですから文句を言える相手はは私しかいないのです。しかしある年から合唱コンクールの次の日が他の行事の振り替え休日を持ってきたため休みになったのです。小山台の生徒は忙しいので一日休みが入ると、もう合唱コンクールのことなど忘れて次の目標に向かって進んでいくので誰も文句を言いにこなくなりました。ただ色々言いたくなるのもそれだけ一生懸命取り組んだからこそと私自身も心静かに受け止めることが出来るようになりました。また稀にではありますが合唱コンクールが終わった後に優勝できなかったにもかかわらずわざわざ音楽準備室に来て「先生!本当にお世話になりました!」と挨拶に来る生徒もいます。この一言がどんなに元気を与えてくれるか?私にとっても一回一回の合唱コンクールが人生の宝であると感じています。
合唱コンクールの思い出
「富~士見はるかす~、窓・晴れて~」
懐かしの校歌。このメロディを思い出す時、浮かんでくるのは入学式でも卒業式でもなく、『合唱コン』…
私が小山台生だったのは30年ほど昔で、まだ『目蒲線』が地上を走っており、校門脇の踏切のカンカンという音と、校庭の小山台体操の掛け声が、クーラーがなく授業中も開け放した窓から聞こえてきて、初夏の教室の空気をのどかにしていました。1年生のときは高校生になりたてで右も左もわからないまま合唱コン当日を迎え…、そこでショックを受けたのが上級生の演奏。小山台の合唱コンクールってすごい、すごい!
翌年。普段はグループに分かれていたり一匹狼っぽい人も、いざイベントとなると団結できる素晴らしいクラスに恵まれて、本気で取り組んだ合唱コン。
まずは課題曲に相応しい密かな難曲である校歌…メロディはユニゾンでなく二声で書かれており綺麗にハモらなくてはなりません。曲想も細かく指示されていますが、よく考えて音楽的に解釈しないと、ちょっとハテナなニュアンスになってしまう箇所もあります。特筆すべきは伴奏!いきなりオクターブのレガートで始まる前奏のメロディ、変化に富んだ音型、豊かな和声、、、昭和のピアノおけいこブームに育った私達世代は、各クラスに何人もピアノが弾ける人がいたので困らなかったけれど、小山台の校歌の伴奏を、歌が心地よく流れるように弾きこなすのはなかなか大変です。それにしても、伝統校の校歌にしてはハイカラな音楽…と思っていましたが、後々謎が解けました。童謡『とんぼのめがね』や、私も好きなピアノ独奏曲『幻想曲「さくらさくら」』の作曲家、平井康三郎氏によるものだったのです。驚きつつ納得し、嬉しくなりました。
そして、自由曲。今となればよくこんなに歌唱力を要求される曲を選んだなあ、怖いもの知らずだったなあ、と思うような曲を、粗削りながらも10日ほどで仕上げなくてはならないわけですが、、、みんな集中力と記憶力を総動員して、あっという間に歌えるようになっていきました。
本番は大田区民会館、当日の朝は池上本門寺の境内で各クラスが朝練をします。目の前で他のクラスが歌っていることもあり、すでに本気モードです。そしてステージへ、ドキドキ頂点の中で弾いて歌って…私達のクラスは幸運にも2年連続で1位をいただくことができました。3年生の時は隣のクラスと同率1位でしたが、練習の時から素晴らしく音楽性豊かに歌っているのが漏れ聴こえていて、正直負けたかもと思っていただけに、同率1位になれてとても嬉しかったことを覚えています。でも、もし違う結果だったとしても、合唱コンの思い出は変わらず良きものだったと思います。(実際、運動会は優勝できなかった年も、全力で取り組み充実した良き時間として心に残りました。)
合唱コンには個人的に感謝していることもあります。私は音楽での進学を志望していたので、受験のための練習は苦行そのもの、音楽というものが全く楽しめない日々の中にいました。そんな時、クラスメイトとの練習は音楽を純粋に楽しいと感じられる時間だったのです。ピアノは基本的に孤独な楽器ですが、アンサンブルの楽しさを味わえた合唱コンは、その後の人生のルーツのひとつになったかもしれないと思っています。
もうひとつの合唱コンの思い出…それは音楽科の教育実習生としての思い出です。生徒達の練習を見守り、当日は審査員も務めることになりました。どのクラスも全力を尽くして歌い、それぞれに良いところがあり、点数を付けるのはそれはそれは難しかったです。大学で音楽を学んでいたものの、声楽やコーラスに関しては素人に毛が生えた程度でしかなかった私は、どうしても若々しさや豊かな声量に耳を奪われ、繊細なハーモニーを作り上げていたクラスに気づいてあげられなかったことがありました。また、生徒が練習と勉強の両立に悩んで相談に来たとき、なんと答えてあげたらよいのか私自身が悩んでしまったこともありました。実習生としての合唱コンは、ただただ楽しかった高校生の時には知らなかった、先生方のご苦労を垣間見させていただいた貴重な経験となりました。
2022年現在、長引くコロナ禍は出口が見えそうで見えていません。歌や合唱がクラスターを生むものとして制限されて早くも2年半が経ちました。高校時代は3年間しかありません。勿論イベントが高校生活の全てではないですが、せっかく小山台に入学したのに、合唱コンを奪われるなんて…。「青春ってすごく密なので」涙ながらに語られた仙台育英高校野球部監督の言葉を聞いて、小山台生への想いとともに、私自身の遠い記憶も溢れ出た今年の夏でした。
(平成4年度卒業 M・K)