合唱コンクール
合唱コンクールの始まり
- 合唱コンクールの概要(音楽科 土屋公平:六十周年記念誌より)
- 第一回の校内クラス対抗合唱コンクールは昭和四五年(1970年)に始まる。
- 六月七日より三日間授業終了後三時過ぎから各学年ごとの予選を行い上位三クラスずつを選び、六月十日に予選通過の全九クラスにより本選を行った。
- この合唱コンクールは、校歌を覚えること、新年度の学級づくり、全員が合唱の楽しさを味わうなどをを主な目的として、音楽科と生徒部(石黒冨美男部長)の企画立案によって推進され、実現したものである。
- 演奏曲目は、校歌を課題曲とし、これに各クラス任意選定の自由曲で、審査は職員有志と生徒(各クラス一名の審査員)の三十数名で行い、点数制によって入賞クラスを決めた。
- 昭和四七年(1972年)には職員合唱が初参加し、「八中校歌」と「めだかの学校」の二曲を奥野一雄先生(数学科)の指揮によって歌い、大好評であった。しかし、職員合唱は間もなく中止せざるを得なくなった。練習時間がとれないことと、審査と演奏の掛け持ちが困難になったことなどが中止の理由である。
- 合唱コンクールも学校行事の一つとして徐々に定着し、昭和五一年、第七回から一日を使って、池上の大田区民会館で行われるようになった。午前九時三十分に開会し、午前中に一・二年の演奏、午後三年の演奏を行い、三時三十分閉会の時程で行われ、この時程が継続されるようになった。
- 本番に至るまでの練習時間は、発足当初では無制限であったが、やがて二週間となり、大田区民会館で行われるようになってから八日間に短縮された。また、審査も点数制から職員と音楽科教生のみによって協議して行うように変わり、現在に至っている。
- 練習時間は短縮されたが、生徒の合唱コンクールに対する意欲は徐々に向上し、積極的に難曲に取り組むようになってきた。ここ数年の選曲をみると、一年は「大地讃頌」「木琴」などのオリジナルから、「モルダウの流れ」や、フォーク調の編曲ものなどがみられる。二・三年はほとんどオリジナルで、合唱組曲からの選曲が多い。中でも「島よ」(大中恩)・「海鳥の歌」(広瀬量平)・「心の四季」(高田三郎)・「旅」(佐藤真)・「筑後川」(団伊玖磨)などがよく選ばれている。また、「ともしびを高くかかげて」・「ひとつの朝」・「わが里程僄」・「赤い機関車」などのNHK合唱コンクールの課題曲や「ハレルヤ」「流浪の民」のような古典に属する曲、異色な「カルミナ・ブラーナ」のような曲などが選ばれるようになってきたことも、最近の傾向の特徴てきなことである。
合唱コンクール この10年
- 七十周年記念誌より 音楽科 三澤寿喜
今年(1992年)合唱コンクールの変遷で第23回を迎えた小山台高校の合唱コンクールは運動会と並ぶ一大学校行事である。
伝統ある合唱コンクールは校歌を覚えること、新年度の学級づくり、合唱の楽しさをあじわうことを大きな目的として、1970年(昭和45年)に始まった。この年は6月7日より3日間、放課後、本校旧校舎の講堂にて各学年ごとの予選が行われ、上位3クラスずつが6月10日の本選に出場した。本選は学年の区別なく審査されたので、入賞は3年生が独占し、2年生や1年生は努力賞を獲得するのが精一杯だったらしい。
1973年、第4回からは職員合唱が加わったが、練習時間が十分にとれないなどの理由で、間もなく中止された。
1976年、第7回からは会場が大田区民会館に移された。全校生徒が一堂に会し、全日かけての合唱コンクールの形がここで整えられた。この年、本選、予選の形は廃止されたが、学年の区別なく順位をつける形式は継続された。やはり、入賞は3年生が独占していた様子である。
1978年、第9回からは学年ごとに順位をつけ、表彰する形に変えられ、これが現在まで踏襲されている。
合唱コンクールの現況
今年(1992年・第23回)の合唱コンクールを中心に、その現況をまとめてみた。
合唱コンクールは各クラスから選出された文化委員によって運営される。各クラスでは文化委員を中心にして、5月16日(土)までに指揮者、伴奏者、自由曲が決定された。選曲にはどのクラスも苦労しており、音楽準備室には連日、文化委員が過去の録音テープなどを借りに大勢押しかけてくる。