高28回思い出の投稿

提供: 八中・小山台デジタルアーカイブ
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小山台高校での思い出のページです。高28回同期の方ならどなたでも載せることできます。

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〇次のフォーマットでお書きください。

思い出のタイトル

3〇 筆 者 名
タイトルは「見出し2」のサイズとします。
卒業時のクラス名と筆者名は18ピクセル 右寄せとします。筆者近影など写真があるとさらにいいですね。
1行改行した後,本文をお書きください。
ワープロソフトやエディターで書いたテキストを貼り付けても大丈夫です。
内容に関連した写真を入れていただいても結構です。読まれる方が分かりやすいようにするのもポイントです。

※※内容については高校時代の思い出であれば自由ですが,八中・小山台デジタルアーカイブの性質上,書かれた内容はネット上で公になりますので,八中・小山台デジタルアーカイブに相応しい内容,コンプライアンス(法令順守)に配慮した内容でお願いします。(例:未成年の飲酒,喫煙などは✕)


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高村先生の思い出

3E 吉田 雅彦


- 高村先生(古文)入学式の日、H組担任の先生は優しそうな目をしておられた古文の高村先生でした。後にとっても厳しく怖い先生と思い知るのですが、先生をめぐるエピソード(人から聞いた話)は数知れず・・・・・例えば胸ポケットの万年筆から授業中、インクがジワジワと滲み出しているのに教室の誰もが怖気付いてそれを指摘できず、胸のシミは拡がる一方だったりとかetc・・・・圧巻は卒業アルバムに掲載するクラス全員写真の撮影時。みんなでジャンプした瞬間を上手く写真におさめよう!と、掛け声に合わせて全員がジャンプし、シャッターが切られます。

H組スナップ2

それじゃあ最後に3回目同じように上手くジャンプしてください!の指示のもと、セーの!で最前列の高村先生も満面の笑顔で天高く飛び跳ねました。しかし、悪戯大好きなクラスの面々、ある約束事を決めていました。・・・・・結果、どんな写真が出来上がったのか?ぜひ卒業アルバムのH組のページで確かめてみてください。

私はこのシーンを思い出すたび、山手線の車内で思い出し笑いを何度抑えられなくなったことか・・・・・・でも、本当は生徒思いの仕事熱心な先生でした。 ぜひ3H渾身の卒業アルバムもご覧くださいませ!(右端の写真を今すぐクリック!!)

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恩師の思い出

3D 北原 毅


- 石黒先生(数学I)入学前に数1の教科書貰って、全て教科書内の問題を解いていたので石黒先生に(当時、NHK教育TVで高校数学を担当されていたのでとても丁寧な)授業中「お前だけに授業しているわけじゃ無い」って一言くらった。それから私は静かにしてました。
- 芝先生(物理)入学初日、物理の先生は誰ですかって聞き回って芝先生に中学校時の「模型とラジオ」という雑誌の懸賞問題、ブリッジ抵抗の合成抵抗の求め方を聞きに。「キルヒホッフの法則で解ける」って教わった。「交流磁界の中で同期して回転させるにはどうしたらよいか?」の質問。その頃有ったコンセントに繋げる目覚時計、分解した事が有ったので「軸に磁石を使う」と即返答できた。
- 水越先生(生物)プラナリア、「パーッピ」って言っておられた様な。
- 園山先生(化学II)定期試験の答案返却後「この問題、学年で一人だけ正解だったのが居る」思わず声が出そうだった。
- 川田(大坂)先生(英語)「耐震の英語、皆の腕時計にヒントが有るのに」Water-proofをEarthquake-proofは参った。冗談で受けた河合塾の東大模試で50%が災いして受験出願、元々東工大で考えていた私、母親と3者面談で「東大だったら落ちても恥ずかしく無い」って。これにも参った。
- 不島先生(数学II、III) 本当にお世話になりました。答えが合っていても解き方が悪いと❌を。ドラゴン桜ではありませんが、解き方まで点数になる入学試験だった事を教えて頂きました。「Sin(72°)を図形から平方根で表示して求めよ」なんて言う課外宿題も貰いました。解き方思い出したらアーカイブの何処かに載せておきます。数年前にはググって出てきたのだけれど。
諸先生がたのお陰で今の私がという気持ちです。

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受験勉強の思い出

3D 北原 毅


3年の時にブラスバンドのコンクールに出る事に同意し、夏休み半分、合宿で潰れ普通ならかなり厳しい状況。でも、国語、社会は気にしないで良い(東工大志望)と思っていたので気は楽だった。只、数学と物理は寝る直前まで難し目の問題に挑戦し、眠くて解けなくなった時に寝る。翌朝、同じ問題を解く練習をかなりした。今では潜在意識を使う、意識の裏の能力を使う訓練をしていたのだと考えている。実際、大学受験の数学2次試験、6問で3時間という過酷なもの。1問目15分ほどか、頑張っても解き方すら出てこない。で2問目に取り掛かり、その途中で1問目の解き方が突然浮かぶという事が起きた。実際の話で自分でも驚いていた。
数学は小林さん、佐藤さんと共同でZ会の添削通信教育も受けていた。一人では荷が重すぎ続かないので三人で週ごとの持ち回り。三人とも現役合格してしまったけれど。
現代国語、元々、国語はすごーく苦手。でも英語の勉強をするにつれて日本語の勉強にもなって不思議だった。
志望先を変更し受験科目増え、でも運良く過去問(赤本)の漢文から同じ例文、質問内容は異なってたが、それで勢い付いて1次はパス。2時試験の英文和訳「myth」がキーワードの文章で、皆が使っていた「よく出る単語」(出る単)には後ろの方、天邪鬼の私が使っていた「暗記する英単語」(暗単)では前の方(それでも最後迄は時間切れ)。なので運良く助かった。
自宅のトイレの内側、元素記号表などを一面に貼っていた。ドラゴン桜に出てきた一場面その物だった。ハハ
二次試験終了後、私立の合格発表を見に行く時、それまでには経験した事の無い頭痛に襲われ、まるで脳のひだがもう一つ増えるのかと思った。数十年後、人間ドックで初めて脳MRIを撮った時に言われた。「ここの白い部分、かなり古い時の脳梗塞の後ですね」と。それかぁ、怖(生きてて良かったのか悪かったのか)
アーカイブデータに「進路」という情報を見つけた。高校28回、我々が卒業した年に着任された校長先生がまとめられたデータ。赤面物のデータがそこに。私のアテストの成績も有って、やっぱり運を引き寄せただけの受験だった事がここからも分かる。何ということでしょう。(Before and After)


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考える修学旅行

3E 吉田 雅彦
高2の秋の修学旅行、行先は・・・・・・

ま~た京都・奈良かあ、と食傷気味だったのは出身中学の修学旅行と似たような行程、とくに奈良では猿沢池傍の同じ宿に宿泊予定だったから。しかも私は中1まで関西暮らしだったので京都・奈良は年中、遊びに連れていかれた庭みたいなもの、だったからです。

でも、さあすがに高校生の修学旅行。京都(四日目)では自分たちで行程を組み、自主行動する一日が組み込まれていましたよね。これを計画するのがが大変! 何しろ当時はWeb検索も乗換え案内アプリも無い時代でしたから。頼れる資料は紙媒体オンリー。図書室やパンフレットから仕入れた情報をもとに見学先の選定から移動手段、時間の段取りを考えなければなりません。前もって予約の必要な寺社にはハガキで申込も。交通公社職員なら給料もらって生業にする仕事です。

そうして各々が好きな仲間と小グループを編成し、京都じゅうに散らばって見学しまくった一日の様子が「修学旅行小グループ見学報告文集→」に収められています。 自分の行動履歴なんてこれぽっちも覚えていなかったのに、ある組の女子たちがしたためた文章の面白さは生涯忘れ得ぬ秀作?として心に残っています。 写真には収めていなかった名場面も続々・・・・・あの日 天気に恵まれた紅葉間近な1974年11月14日の光景がリアルに甦ってきます。

この高28回のページでも公開中ですので是非ご期待ください。誰がどのグループに属していたかは目次や索引を目を皿のようにして探さなくても現代人の私たちは検索一発で探し当てられるはずです!!

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あの頃のプール事情

E組F組クラス会(白組会ミニ)2022懇親会場にて
高28回3E3Fクラス会2022-11-4.jpg


「あの頃(昭和40年代末)の小山台のプールって衛生状況最低だったよな〜」
「そうそう、シャワーなんか無くってさ」
「阿部先生はバケツを逆さにして「シャワー!!」って仰ったけど・・・」

この後しばしプール談義に花が咲き、盛り上がりを見せたのでした。詳しくは書けませんが・・・・

「そういえば、校舎の端っこにラーメンとか食べられる店あったよね」
「そうそう、そこに自販機もあって瓶のチェリオが好きだったなー」

これまた、瓶詰め飲料をめぐって思い出話に花が咲き・・・・・詳しくは書けませんが・・・・

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モータリングdays in 小山台 

3E 吉田 雅彦


在校中の小山台には自動車班が存在していて、駐輪場の反対側には車が二、三台収まるガレージがありました。その中には旧〜いプリンスやダットサンの不動車が埃まみれになっていたのを思い出します。車齢は推定で10年ちょっと、昭和30年台初頭の生産と思しきものでした。

当時は軽(自動車)免許がなくなった後ですが16歳になると二輪免許が取得できました。限定解除やヘルメット着用の義務もまだなくてナナハンと呼ばれるホンダの大型4気筒バイクに跨って合法的に通学できた最後の時代でした。 週刊漫画誌にはナナハンライダーや愛と誠、ガキでかが連載中の頃

大型バイクに跨り颯爽と校門を潜って駐輪場に現れた同級のI君の姿は眩しかった!まだノーヘルもバイク通学も合法だった懐かしい時代のワンシーンです。 もし自分にももう少し知識とやる気があったならバイク部品をかき集めて一台組み上げて免許取りに行っていただろうに… 結局、卒業の頃には51cc以上のバイク通学はNGとなり、原付バイクのみ通学が許されることになりました。まだまだ3ない運動なんて言葉もなかった頃の信じ難い光景でした・・・

件のIくんに30年後大井町線でバッタリ。 今じゃ電動アシスト自転車が大活躍だとか・・・・・

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